東北大学電気通信研究所, JST-CREST 尾辻 泰一
1.はじめに 六員環構造でなるsp2結合した炭素原子の単層シート:グラフェンが今,注目されています1)。グラフェンの電荷キャリアは、静止質量がゼロの相対論的粒子(ディラックフェルミオン)に似ていて、エネルギー無依存のc*106m/sなる光のような速度を持ちます。逆格子空間におけるK、K’点付近では、電子・正孔が完全対称な線形分散特性を有し、かつ伝導帯と価電子帯が1点で交わります(図1)。その結果、通常の二次元電子系とは異なるディラックフェルミオン特有の特異な伝導現象が現れます。2004年,Ph.D.学生だったK.S. Novoselovとその指導教授A.K. Geimらがグラファイト塊からの機械的剥離によってはじめてグラフェンの生成に成功し,続く2005年に上記の特異なキャリア輸送特性を実証して以来,夢の材料として一気に研究が活発化しています1)。会津大教授:V.Ryzhiiと私達は,電子・正孔の完全対象な線形分散特性が光学励起による反転分布をもたらすことに着目し,テラヘルツ帯で負性導電率が比較的容易に実現できることを2007年に見出しました2)。量子カスケードレーザーに続く新型テラヘルツレーザー実現の可能性が少しずつ見えてきました。 2.光励起グラフェンのキャリア緩和・再結合過程とテラヘルツ帯負性導電率 図1のように、Ωのフォトンエネルギーで光ポンピングした非平衡状態を考えましょう。伝導帯と価電子帯は線形で,1点で交わります。両者が交差する点はディラックポイントと呼ばれ,熱平衡状態のフェルミ準位です。ポンピングで生じた伝導帯の光電子と価電子帯の光正孔のペアは、フォノンあるいはプラズモンの放射を介したバンド内でのエネルギー緩和もしくはバンド間での再結合により熱平衡状態に戻ります。バンド内緩和過程では、位相整合条件に律速されない光学フォノンとの結合が主で、その緩和時間はサブピコ〜ピコ秒オーダと極めて高速です。一方、再結合寿命は10 ps以上と比較的長いことから、再結合で消滅する前に、ディラックポイント(フェルミ準位)とのエネルギー差が光学フォノンエネルギー:ω0未満になるまで、光学フォノンの放出を繰り返します2)。グラフェンの光学フォノンエネルギーはRaman分光によって正確に同定できます.私達が用いているSi基板上にエピタキシャル成長したグラフェン3)の場合,198 meVです。例えば,波長:1550nm(~800 meV)帯の光通信用赤外線レーザーを用いた場合,2回の光学フォノン放出によって,光電子・光正孔はΩ/2-2・ω04meVだけフェルミ準位より高い・低い位置にそれぞれ到達します。この後は、音響フォノンやキャリア間の散乱によるバンド内緩和でディラックポイントへ落ち着くケースと,バンド間再結合で消滅するケースが考えられます。結晶性が良好な場合には,再結合寿命は長く,音響フォノン散乱も弱いので,容易に反転分布状態が得られます。計算によれば,およそ500GHz以上から10THz以上の広いテラヘルツ帯において,直接遷移によるフォトン放出を伴う放射再結合が支配的となることがわかりました。1550nm帯レーザーによるポンピングの場合,放出されるフォトンエネルギー:ωは、ω=(Ω-2・2ω0)8meVとなり,約2THzのフォトンが放射されることになります。ポンピング光の波長を選択することによって、テラヘルツ帯の所望の周波数(波長)の光放射が可能となります。 ここで重要になるのが,誘導放射そしてレーザー発振の必要条件である負性導電率が得られるかどうかです。バンド内のキャリア緩和過程はDrudeモデルで精度よく記述でき,常に導電率は正値を取ります2)。つまり,利得は生まれず損失成分にのみ寄与します。一方,バンド間遷移では,ポンピングによって新しくキャリアが生成されるので,生成されたキャリアがどれだけ生き長らえるか,つまり,ポンピングによるキャリアの生成率がバンド内緩和や再結合によるキャリアの消滅率を上回れば,導電率が負値を取り,そこに利得が生まれることとなります。キャリアのエネルギー分布はフェルミ・ディラック統計に従います。上記のバンド内キャリア緩和の寄与とバンド間遷移の寄与とを考慮してテラヘルツ帯導電率の実部を求めることができます2)。詳しい過程は省略しますが,ポンピングによるフェルミ準位の変化が熱エネルギー以下の程度に小さい弱励起条件の場合,導電率の実部:Re σ(ω)は,最終的には次のような簡単な関係に導かれます2)。 ここで,eは素電荷,はディラック定数,は温度とキャリア緩和時間に依存するファクタ,は導電率最小となる周波数,そして,は,ポンピング強度とポンピングしきい値です。 は温度とキャリア緩和時間で決まり,広い温度範囲でテラヘルツオーダの値を取ること,結果として,しきい値以上のポンピング強度で,テラヘルツ帯で負性導電率が得られることを見出しました2)。 3.新原理テラヘルツ帯レーザーの可能性 バンド間遷移を利用するレーザーの場合,フォトン放出で上準位から下準位に遷移したキャリアをいかに高速に引き抜くかが,レーザー発振の鍵です。量子カスケードレーザーでは,フォノン共鳴や超格子のミニバンドを利用するなど,様々な機構・構造が検討されています。それに対して,グラフェンの場合,電子・正孔の完全対象な線形分散特性のために,光電子生成に対して同数の光正孔が生まれ,両者は光学フォノンの放出の後に,再結合放射に至ります。これは,下準位のキャリア引き抜きが,特別な構造を用意することなく自動的に果たされることを意味しています。 最近,1550nm帯のフェムト秒レーザーでポンピングしたグラフェンからのコヒーレントなテラヘルツ放射の観測に成功しました4)。図2に示すように,放射光のスペクトルは,ポンピング光のスペクトルから算出される再結合放射フォトンのスペクトルとよく一致していることがわかりました。この現象は,負性導電率に伴うテラヘルツ誘導放射が実現された結果と推察され,その過程の解明を急いでいます。同時に,レーザー発振実現のための共振器構造の検討も進めています5)。 4.むすび 特異な光電子物性を有するグラフェンは,新しいテラヘルツ帯レーザー実現の可能性を秘めています。その実現に向けて,日々,挑戦を続けています。本研究は,会津大V. Ryzhii教授グループ,東北大末光眞希教授グループとの共同研究の成果です。両氏に加え,本研究に貢献した会津大M. Ryzhii准教授,東北大大学院生唐澤宏美,渡辺隆之,小森常義の各氏に深謝します。また,科研費基盤研究(S), JST-CRESTより資金援助を得ました。 図2. フェムト秒レーザー励起グラフェンからのコヒーレントTHz波放射。点線は、ポンピングレーザーのスペクトルから推定される再結合フォトンのスペクトル。 参考文献
|